『学び合い』日記 in山形県

『学び合い』(2重カッコの"学び合い")の実践の奮闘日記です。

田舎のヤンキー

これは僕が思うことです。学術的根拠はありません。でも『』の考え方だから思っていることかもしれません。

 

僕は自分で言うのも何ですが田舎の出身です。

僕の田舎では、正直近づきたくないような人がウロウロしていることもあります。

実際、夜のドン◎ホーテの駐車場とか、花火大会とか、海とかでそういう人を見かけるときがあります。

あと、僕の中学校時代の知り合いだったりもしますし、中学校時代の隣の中学校の悪いやつだったりもします。

それを見ると、僕は正直近づきたくないと思ってしまいます。

 

でも、こういう気持ちをもつことはダメだと思うように最近なりました。

 

ある生徒指導の件がきっかけです。

あきらかに、学校の問題行動を起こすボスです。いわゆる学校の教育にフィットしない生徒のことです。

もちろん、手をやくと思います。教師として近づきたくないと思ってしまうこともあるかと思います。

でも、「あいつには近づくな」とか「あの生徒は省いて、良い学年にしよう」とか、そういう教師に従う生徒を率いて、教師には従わない生徒は何とか力尽くで言いなりにしようとする。そんなことをするから、いわゆる田舎のヤンキーが生産されてしまうのかと思います。そして、その田舎のヤンキーの団結力はすさまじいです。

西川先生の本に書いてある「教師の再生産」に似ていると思っています。

だから、この件をきっかけに地域での「一人も見捨てない」を考えました。

 

まだ、全然実践できる立場でも計画も何もありません。

でも、地域で「一人も見捨てない」ことを求められたらどれほど救われる生徒たちがいるかを考えてしまいます。

僕の知り合いにも、いわゆる警察のお世話になっている人も実際います。

でも、その知り合いなりの抵抗なのだと思います。

 

正直言って、生徒たちの中には、勉強どころではない生徒もいます。

家の状況的に勉強をしている場合ではない、1次関数を勉強している場合ではない生徒たちもいます。

今まで知らなかった中で、僕は数学の授業でどのようにして、数学の本質的な内容、数学を創る授業をするかを考えていました。

もちろん、それが実践できる学校もあると思います。

でも、そうでない学校の方が多いと思います。

 

ALの方法論ばかりに気をとられていると、奥の深い部分を見失ってしまいます。

Why?を考えると、道筋が見えてきます。

 

タイトルを「田舎のヤンキー」と付けている時点で、きっと僕は「仲間」とは考えていないんだと思います。書きながら思いました。認めたくなかったけれども、タイトルはそう付けました。

 

田舎では子どもたちはSNSを介して、想像以上に繋がっています。

どんな社会が来ても、地域で支え合って生きていける「良い」つながりになるようにしていきたいとますます思ったわけでした。

以上です。

 

 

バランスが課題

「一人も見捨てない」は本来面倒くさいことだと思います。

絶対に「徳」では動けません。(動き続けません。)

だから、「得」を説く必要があると思います。

今までは説き方の方法を考えていました。

 

でも、最近は違います。

 

どんな説き方でも、その説き方の背景にある言葉の重みに生徒たちは気づいてしまいます。だから、教師として、どれくらい本気で話すかどうかが重要だということに気づきました。

この『』の中にあるたくさんのテクニックと言葉の重みとのバランスが今の課題です。

『』の中にあるたくさんのテクニックに頼りすぎてしまうと、本来の言葉の重みとのバランスがとれなくなってしまいます。

言葉の重みばかりに気を取られると、集団の本来の姿を見失う可能性があります。

人は都合の良いものばかりを見てしまいがちになります。

この両者のバランスが非常に重要であることを最近は特に思っています。

 

でも、です。

 

僕が一番重要だと思うのは、やっぱり「想い」です。

どれくらい純粋に生徒たちと向き合えるか。

 

伝わらなければ、言葉ではありません。

聞こえなければ、声ではありません。

 

本気の「想い」をしっかりと伝えていきたいです。

山形『学び合い』の会を終えて

だいぶブログの更新を滞っていました。

先日の『学び合い』の会を無事終えることができました。

収穫と課題とどちらもありました。

個人的には、もっとフリートークの時間をとって参加者全員とお話できる機会があればと思っていました。

そこが1つの反省点です。

 

でも、参加者16名の先生方との出会いが本当に嬉しかったです。

16名の先生方それぞれが、それぞれの課題をもって望んでいました。

そして、僕もです。

日頃の実践や、悩みを素直に話せる中を創っていくのは非常に大切なことだというように感じました。

 

次回の開催も予定します。

日々の授業実践と同じで、「続ける」ことの大切さを強く実感した会となりました。

今回の会で感じたことを、ブログでもこまめに更新してアウトプットして、自分のレポートにしていきたいです。

 

本当に素晴らしい会でした。

参加して頂いた全ての先生方に感謝の気持ちでいっぱいです。

今後ともよろしくお願いします。

先を見通した課題の設定

成績付けの時期です。

本当に嫌です。

そもそも生徒たちの頑張りに数字で評価することが良いのかも疑問に思えます。

 

まだ今年度は終わっていないですが、来年やりたいことがたくさんあります。

 

生徒たちに評価の方法を伝えたと書きましたが、完璧ではありません。

もっともっと高いレベルを目指したいです。

 

3年生のこの時期になると、もう3年生には言葉はいらない雰囲気があります。

でも、それを成立させるための4月からの積み重ねだとも思います。

1つ1つを大切にして、いきたいと思います。

生まれた日

今日は誕生日です。

24年前の19時36分に生まれたと母親から連絡が来ました。

「ありがとうございます」と感謝の気持ちを伝えました。

たくさんの方々との出会いのもとで生きています。

 

妻からもお祝いをしてもらいました。

 

生徒たちに幸せになってもらうことはもちろんですが、家族の幸せを第一に考えることのできる夫になりたいです。

 

これからもよろしくお願いします。

 

「一人も見捨てない」の勘違い

『』をやっていて一番怖いのは勘違いです。

どんな勘違いかというと、「一人も見捨てない」の勘違いです。

 

まず1つは「一人も見捨てない」を方法として考えてしまう間違いがあると思います。

私もまだ覚えていますが、この『』の授業をスタートしたときの授業は今までの想像を超えてきます。

 

本当に子どもたちの精一杯頑張る姿に感動します。

 

だから、全員達成できたときは本当に感動します。

 

だからこそ、「この授業を続けていれば、生徒たちがきっと全員分かるまで頑張ってくれるだろう」という慢心が生まれてしまいます。

そして、この慢心から『』集団は崩れていきます。

大阪のフォーラムでK先生が、『』の授業は、クラスという船を子どもたちと立て直しながら進むのと似ているというお話をしてくれました。

 

だから、この『』の授業が子どもたちの学力を向上する都合の良い授業方法か何かと誤解していたらそれは注意が必要です。

 

 

もう1つは授業観(教師観)です。

ある『』もどきのようなものを行っている先生が、子どもたちのアンケートから、「先生に教えてと言っても、『あっちに聞きにいきなさい』と言われて教えてくれない」という記述があったようでした。

私はこの話を聞いたときに、「しっかりと本を読まないと失敗することの危険性」を強く実感しました。

 

これはけっこう学校でも誤解されることだと思うのですが、『』の本には、「教師は子どもたちに勉強を決して教えるべきではない」とは書いていないのです。

授業観(教師観)としては、「教授は子どもたちに任せるべき」と書いてあるのであって、断固として教えることを否定しているわけではありません。

だから、『』を「教師が教えるのではなく、子どもたちだけで勉強を教え合う授業」という方法で捉えているとしたらそれは危険です。

 

と書いている私も昨年同じようなことが1回ありました。

そのときに大切だと思ったのは、「いつでも聞きに来なさい」というスタンスです。

『』をはじめて初期の頃は、まだ先生からの授業に抜け出せなくて、先生に聞きたいという生徒もいると思います。

だから、そういう生徒がいたら、来る者は拒まず迎えるようにしています。

ただし、そのときに周りの子どもたちを巻き込むことも大切にしています。

そうして、課題を解決して、分からない問題を他者と折り合いをつけて解決できたとき、その子どもの中には、何とも言えない達成感が生まれると思います。

そして、徐々に「先生の説明を聞かなくても、クラスメイトと共に解決することの方が充実しているし、自分にとって得である」ことを実感して、『』の良さを感得していくのだと思います。

 

というか、質問した相手に、「あっちに聞きに行きなさい」と言われたら、教師である僕たちも嫌じゃありませんか?

僕がこのように言われたら、その先生のことを嫌いになると思います。

 

 

『』は考え方です。

では、その考え方はどのような場面で伝わるのかと言うと、そのような子どもたちと対峙する場面、語りの場面など、様々な場面で伝わると思います。

 

クラスメイトを見捨てない・裏切らない集団になるためにも、「一人も見捨てない」を勘違いしないことを意識して生活していきたいものです。

 

自分の思考の整理も含めて記述しました。

教師と子どもは同じ

 

 この本はもう4,5回は読んでいるバイブルです。

『学び合い』が上手くいかなかったり、もう一度考え方を勉強し直したいときに読んでいます。

 

この本のp102に「4|教師と子どもは同じ」というタイトルがあります。

この箇所を読んで、僕の中学校時代の担任の先生の考え方が『』に限りなく近いことを確信しました。

 

このタイトルの内容は「子どもたちは有能である」と「子どもたちは凄い!」は同じようで違うということを記述しています。

今まで、この部分を読んでいたときは、正直読み飛ばしていた箇所だったと思うのですが、また勉強させてもらいました。

 

ここには以下のような記述があります。

 

「『メール拝見しました。クラスが良く育っている様子、それを可能としている場を○○さんが確保している様子、よくよく分かります。しかし、一つだけ、書きたいと思います。それは、「なぜか知らないけど、私もそうですが、大人は一度ダメなヤツと見てしまうとその考えはなかなか変えられません。でも子どもは違う気がします。」という言葉に引っかかりました。この言葉は、子どもの可能性を信じる、「良い」言葉のように響きます。しかし、私は、「怖い」言葉と紙一重のようにも思えます。つまり、子どもと自分とは違うという解釈の仕方をしてしまえば、「子どもだからできない」という解釈に直ぐに繋がってしまいます。私は、そこで踏ん張って「子どもと自分は同じだ」と考えるようにします。(中略)私は、「子どもは特別に素晴らしい存在だ!」という言葉は、「子どもは特別に愚かな存在だ!」とは違うように見えて、「子どもと自分とは違う」という次元では全く同じだと思います。」

 

僕はこの箇所を今まで気にも止めませんでしたが、今はものすごい引っかかりました。

なぜなら、体育祭や合唱コンクールを終えて、「子どもたちは素晴らしい存在だ!!!!!」と考えていたからです。

でも、それは本当は危険な考え方で、『』の子ども観である「教師と子どもは同じ」という次元では見ていないということが明らかになりました。

 

そして、僕の中学校時代の担任の先生は言葉は違いますが、「一人間として、見る」として、教師も子どもも同じ目線、同じ次元で見ていました。

だから、改めて今回のことを気づかせてもらえるきっかけになりました。

 

書きたくて書きました。

『学び合い』って本当に奥が深いです…。