『学び合い』日記

『学び合い』(2重カッコの"学び合い")の実践の奮闘日記です。

【本通り】~学力向上に向けて~

今回の本です。

 

 

今回の記事では、私(というか本に書いてあるものです)が「本気」で実践している学力向上策を記述します。

 

その策は大きく1つです。

 

結論から言うと、「本気」で生徒たちの学力を願っているかどうかです。

 

 

理由としては、生徒たちの学力の向上を「本気」で願っているのならば、なんらかの策を練ろうと、教師が「本気」で思うからです。

 

 

西川先生の本の学力向上に関する記述に、「学力を本気で向上させようと思うことが一番大切だよ」というものがあります。

「いやいや、そう本気で思うだけで、上がるわけないじゃんか…」と思う先生もいらっしゃると思います。私も最初はそうでした。

 

これは自分自身にも言い続けていることですが、

「本気」で学力の向上を願っていますか?

ということです。

 

「なんとなく上がれば良いな~」程度では絶対に上がりません。

具体例を1つ挙げれば、スポーツの指導があると思います。

例えばサッカーで、「なんとなく勝てれば良いな~」程度の指導で、チームが勝ち続けることはできるでしょうか?

選手の実力にもよると思いますが、答えは自明だと思います。

その程度の指導では、負けたときに、「このメンバーではどうしようもない」「この実力では無理だ」というように合理化するのがオチのような気がします。

 

それと同じで、学力面でも「なんとなく上がれば良いな~」程度では、「このクラスはどうしようもない」「この学校はどうしようもない」と、合理化してしまうと思います。

 

だからこそ、まずはスタート地点として、「本気」で生徒たちの学力の向上を願うことが重要なのです。

そのスタート地点を抜きにして、学力向上を議論することは不可能だと思います。

 

「テクニック入門」とありますが、この「本気」の考え方が無ければ、学力の向上にはつながらないと思います。

 

職場の人との関係性で意識していること

先日、「こんな人は嫌だ」というタイトルで、アイスブレイクをしました。

そこで困ったのは、私自身、あまり嫌なタイプの人というのが存在しないことです。

むしろ、嫌な感じの人がいたとしても、「こうはならないようにしよう」といわゆる反面教師的にみて、自分に活かそうとしています。

 

職場でも同じです。

僕は職員室の先生方全員と折り合いをつけて、学校の課題を解決しようと本気で思っています。

でも、これって、生徒たちに求めることと同じですよね。

 

つまり、生徒たちに求めることは、自分が一番実践するつもりでいます。

 

それは『学び合い』をスタートする前から心がけてはいますが、人として大切にしていきたい考え方です。

 

また、私は『学び合い』についての、質問や意見がきても、戦いは絶対にしません。

質問や意見に対して、シンプルに答えます。

心の中で、「本に書いてあるけどな」とかは思いますが、無理強いは絶対しません。

 

質問や意見から、一緒に話し合ったり、相談したりはしますし、一緒に課題を解決しようとはしますが、無理強いは絶対しません。

 

相手の立場に立てば自明だと思います。

 

ということを、意識していて、今まで対立したことは一切ありません。

 

対立が起こる原因は色々あると思いますが、もし対立が起こるとしたら、1つの要因は自分にあると私は考えています。

 

だから、対立したときに、自分をしっかりと振り返ることを大切にすべきなのかなと思います。

 

それは、生徒たちとの対立でも同じですよね。

【本通り】〜4つのタイプについて〜

 

『学び合い』の考え方において、
1つのクラス、集団内の生徒たちを大きく4つに分けております。

 

p8:
第一は、教師が授業中で教えることは塾・予備校・通信教材・家庭教師で学習済みの子どもです。
第ニは、教師が教えなくても、教科書を読めば自分で自力解決出来る子どもです。
第三は、教師の説明で分かる子です。
第四は、教師の説明でも分からない子です。

 

一般的に、このような種類に大きく分けることを認めた上での話になります。

 

第一から第三までについては、後ほど書きますが、まず第四の

教師の説明でも分からない子」の解釈です。

 

 

1.教師の説明でも分からない子

この文章を読んだときに、教師の説明の分からなさがどの程度なのか、中々教師という立場になると分からないと実感しています。

この時の具体例としては、大学教授をイメージしてください、と『』の本には主に書いてあります。

 

たしかに、私は大学の応用数学の授業を受講していましたが、教授の言っている言葉の全く意味がわかりませんでした。その状態が、クラスの一番勉強が苦手な子と教師の間には、成り立っているということをイメージすると良いと思います。

「いやいや、そんな子はうちのクラスにはいないよ」とおっしゃる方がいれば、それは本当に素晴らしい先生です。私にはそのようなにはできませんので、議論の対象外となります。

 

エキスパート・ノービスの研究でも明らかになっていることを、「ただ、なんとなく」「ちょっと、信じられない」ということを全て抜きにして、しっかりと「教師の説明でも分からない子」がいることの事実を認めることが重要だと思います。

 

教師の説明や友達の説明で、よく首を振って「うんうん」と頷いて聞いている子もいると思いますが、その子は本当に分かっているのでしょうか?

当人が本当に分かっているかどうかは、その子と対話をすることが必要です。その子の説明や、その子の考え方を聞くことが必要です。

でも、クラスの30人の声を聞く時間があるかというとNOなのです。

 

「教師の説明でも分からない子」がいることを私は素直に受け入れています…。

 

2.第一と第二について

この2つについても1冊の本を参考にしながら記述しますが、教科書の記述内容を自分の力で理解できたり、理解できなくても質問したりすることができる環境がある状態です。

 

教科書の読解力が今の中学生に足りていないことを明らかにしている本に、以下のものがあります。

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

学年や問題にもよりますが、中学校を卒業する段階で、約3割が表層的な理解もできていない実態が明らかになっています。

地域やいろんな環境にもよると思うのですが、読解力が足りず、教科書が読めない子どもたちがいる一方で、読めている生徒も一定数いることも明らかです。

そして、その読めている生徒たちが、第一と第二のタイプの生徒に当たると思います。

 

3.教師の説明で分かる子について

この子のことを考えて日々の授業づくりに励んだり、課題の難易度を考慮したりするのが一般的であると『』の本でも言われています。

だからこそ、教師の説明で分かる子は、授業で一番効果のある子であると思います。

ただ、教師の説明で「分かる」とは言うものの、その「分かる」の到達度に違いも生じると思います。

「あそこまでは、先生の説明でもわかったのに」「私は全部わかったよ」「あともう一歩なんだよね」など、レベル違いも間違いなく存在することだと思います。

 

 

以上3つに分けてまとめてきました。

 

 

結論

4つのタイプに大きく分けることはできますが、そのタイプについては単元や分野、内容によっても左右されると思います。しかし、この4タイプに分かれることの事実を受け止めたうえで、日々の授業づくりに挑んでいくことが求められます。

 

AI vs 教科書が読めない子どもたち」の本にこのような記述があります。

日本の中高生の読解力は危機的と言ってよい状況にあります。その多くは中学校の教科書の記述を正確に読み取ることができていません。

新井先生の講話を先日聞きに行ったこともあり、この言葉の意味を深く受け止める必要があります。

日々の授業を受けてきても、教科書の記述を正確に読み取ることができていない実態があるのです。そんな子たちにとって、教科書の言葉どのように写っていると思いますか?また、教師の説明で分かる子もいると思いますが、分からない子にとっては、なにかの呪文のように聞こえたりもするのではないでしょうか?

私は教科書の記述を正確に読み取る、読解力を身につけるためには、その教科書の言葉の意味や文章についての意味の膨大な対話が必要だと思います。

新井先生は、この本で、

ご期待に添えなくて申し訳ないのですが、今のところ、「こうすれば読解力が上がる」とか「このせいで読解力が下がる」と言えるような因子は発見されなかったのです。

と書いてます。

そして、『学び合い』にはその読解力を向上させる可能性が十分あると思います。

 

 

いろんな本からの情報が有機的につながり、頭の中がかなり整理されている感じがあります。

『』の考え方で授業するにあたり、この4タイプの子の存在を受け入れることがまずは大切なのかと思います。

 

 

【本通り】〜生徒の分からなさ〜

夏休みの個人の目標として、もう一度『』の本を読み直して、今までの自分の実践の振り返りや考え方の整理などをしていきたいと考えています。

ブログタイトルで「本通り①」というように書いたら、『』の本において、私が大切にしている言葉についてのことが中心の内容を記述していきたいと思います。

 

まずは、この本からスタートしていきます。

 

 

p8:教師は勉強の不得意な子どもがどこに躓いているかは分かりません。

これをどのように受け取るかが大切だと思います。

「いやいや、私は子どもがどこに躓いているかはすぐ分かるよ!」や「こういうところに引っかかるよね」という方がいましたら、私は本当に尊敬の目を向けます。

本屋にもよく、「生徒たちの分からなさ」「生徒たちの躓くポイント」など、様々なジャンルの本が書いてありますね。

 

断言します。

私は、勉強の不得意な子どもがどこに躓いているかは、分かりません。

そのことを現場に出て、初任の時に肌で感じました。

『』は生徒という生徒が一人もいないことを前提にしています。「分からなさ」のポイントが、大多数の生徒には当てはまるかもしれません。でも、あくまでも「大多数」であって、全員ではありません。

だから、「生徒たちの分からなさ」と言われたときに、私は、私と関わる全ての生徒の分からなさについて、理解することは不可能だと考えます。

 

私は大学時代は、生徒のある分野の意味理解の困難性について研究してきました。大学生にアンケートをとったり、理解の様相を記述から読み取ったりして、タイプ別に理解度を分け、論文としてまとめました。

現場に出たら、調査する生徒たちの数を増やし、さらなる理解度のタイプ別の様相研究を行おうと考えていました。

しかし、実際に生徒たちを目の当たりにして、大きな壁が立ちはだかりました。私が大学時代に予想していた以上に、生徒たちの多様性があることに気付かされたのです。

その多様性に負けじと、その研究を継続しようと考えましたが、必ず自分の考察した理解度の枠組みに当てはまらないタイプの生徒が出てきて、また理解度のタイプが広がり、また別の当てはまらないタイプの生徒が出てきて、また理解度のタイプが広がり…、というように、エンドレスに陥ると考えました。

 

ある程度の様相モデルができれば、私としては満足のいくものになるのかもしれません。

そのモデルを突き詰めることは、私の教師人生としてはプラスになると思います。

でも、生徒たちの人生のプラスになっているという自信を強く持つことができませんでした。それは、

どうしても理解度別に分けても当てはまらない生徒の存在が引っかかっていたからです。

 

このことが常に私の頭の中に引っかかっていました。

だから、その生徒にとって私の研究は何か意味のあるものになっているのだろうかとずっと疑問に思いながら継続していたと思います。

 

 

このような背景があって、今の『』の考え方で学校生活を過ごす自分がいます。

p8:教師は勉強の不得意な子どもがどこに躓いているかは分かりません。

 

 

皆さんは、生徒たちの「分からなさ」の研究を本気で調査したことがありますか?

 

私は、分かりませんでした。(まだ本気ではないよ、と言われればそれまでです。)

悔しかったですが、自分なりに本気で調査して、本気で研究しても分かりきることはできませんでした。

研究に終わりはない、と言いますが、果てしなく思ってしまいました。

 

 

たった一文ですが、本気で意味を考えてみると、とても深い一文です。

 

「隣の席の人と仲良く話してください」

とある講演にて、言われたことです。

 

講演をする方は、講演を聴きに来られる方が暇にならないようにするため、

「近くの人、隣の人と仲良く話してください」

ということがあります。

しかし、私はこれはものすごい苦手です。

 

私はかなりシャイな方なので、初対面の人と話すこと自体が苦手です。だから、このようなことを言われると、下を向いて、時間が過ぎるのを待っている派です。

 

 

 この本に、「人間関係作りはイベントではなく、定常的に続ける必要」があり、「ホームルームや道徳や特別活動ではなく教科学習」で行うことの理由は以下のようにかいてあります。

 

第一は、人間関係の出来ていない者同士が繋がるきっかけは事務的なことからなのです。例えば、皆さんが教育センターの研修会で見知らぬ人とグループを組んだとします。その際、「お互いの悩みを打ち明けてください」とか「楽しいゲームをしましょう」と言われて素直にできるでしょうか?おそらく無理だと思います。むしろ、「お互いの学校の不登校の指導の問題点で共通する部分と違う部分をまとめてください」の方が自然に関われると思います。

 

まさに、このような実体験がつい最近ありました。この、「事務的」という部分が非常に大切な部分なのではないかと思います。

 

私は、クラスでよく「仲良くする必要は全くないよ」ということを本気で話します。冗談抜きで本気で話します。そのために、色んなエピソードを入れて話します。

それくらい、「折り合い」をつけて問題解決を図ることの大切さを大切にしたいので、話します。

 

「隣の席の人と」無理に「仲良く」する必要はないと思います。

ある方の講演を聞いて…

今日、新井紀子先生の講演を聞きにいっていました。

明日もあるので、詳細は後ほどかきますが、自分が聞きたい講演を、直接聞くということは非常にためになるということを改めて実感しました。

話している内容は、ほとんどこの本の内容と一緒です。

 

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

 


抜粋しながらの講演だったと思いますが、もう本でしっくりこなかったことがすごい頭に残る時間で大満足でした。

充実した夏休みの一歩でした。遠出して金をかける価値があった時間でした。

もう家に帰ってきたので、明日からまた頑張ります。

「集団づくり」という点で見てみると・・・

今世間でも問題になっている「ブラック部活動」。

部活動に精を出す、ということ自体が教師としての本末転倒の部分もあるかと思います。しかし、働き方改革の流れを受け、かなり改善されてきているように思えます(私の学校では・・・)。

 

最近では、堀博嗣先生の「教師の仕事術 10の原理・100の原則」からたくさんのヒントをもらいました。

・時間には<活きている時間>と<死んでいる時間>とがあります。
・<活きている時間>は待つものではなく、自分で創り出すものなのです。
本気で、<活きている時間>を創り出すことを、毎日実践することがどれだけ大変かを痛感しているこの頃ですが、1つ私が大切にしている考え方を今日は書きたいと思います。
 

私自身、この働き方改革の流れとして、いずれにしても大切にしたいのは、落合陽一先生がおっしゃっている「Work as life」という視点(考え方)です。

globis.jp

「睡眠・生活・仕事」というように分けることなく、「睡眠」以外の全ての時間が「生活」であり、「仕事」である、というような考え方のことです。

ワークライフバランス(仕事とプライベートのバランス)は、時間を切り売りする人の考え方で、今後はワークアズライフ(プライベートとの区別なく、人生をとおしての仕事)を見つけられた人が生き残っていく時代となるであろうとのこと。

というように落合陽一さんも述べています。

教師という仕事は、「睡眠」以外の「生活」「仕事」で分けることは中々難しいことだと思います。

 

私は様々な時短術の本を読んで実践していますが、時間的な拘束が長い仕事でもあり、思うように上手くいきませんでした。(しかし、堀博嗣先生の本はものすごい参考になり、夏休みに入ってからは、勤務時間内に必ず帰ることを実践しています。)

 

だから、私は「ワークライフバランス」から「ワークアズライフ」という考え方に変えて日々過ごしています。

この考え方にしてからは、とても毎日が充実しています。

 

例えば、『』の考え方における行動の具体例、「得」を説得するための語りの例などを日常生活のある場面からもらったりすることもあります。

他の先生の体育の授業をのぞきにいったり、テレビでNHKの特集を見たり、Youtube林修の「初耳学」から良いエピソードを探してみたり、色んな人と折り合いをつけて、たくさん話をしたりすることで、多くの発見があります。

 

また、部活動でもヒントをもらえたりします。

「この集団は、『学び合い』集団になっているかどうか?」という視点で、学校内で活動している部活動のチームを見ていると、目から鱗が落ちるような体験がたくさんできました。

そして、何よりも自分のチームを『』集団になっているか?という視点で見ていると、たくさんの視点が生まれてきます。

語りたいこともたくさん出てきます。

 

しかし、部活動で『』の考え方を「集団づくり」に活かそうと考えているか?と言われると答えはNOです。(言葉ににじみ出ている可能性はありますが・・・)

 

理由は、自分の一番大切にしたい人への時間、大切にしたい時間が削られるからです。

 

きっと、『』の集団づくりの考え方を部活集団に活かそうとそれば、ものすごい成果があげられることができると思います。

すると、きっと「ハマります」。

勝つことが楽しくなり、歯止めがきかなくなります。

「趣味だから!」と言って、自分のプライベートの時間もすべてその時間に注ぎ込むようになってしまうかもしれません。

 

だからこそ、自分自信にストップをかけています。

 

また、その集団づくりをし、チームが優勝したりして、常勝チームになったとします。

私自身は楽しいかもしれません。しかし、異動後にその部活動を受けもつ先生が苦労することになります。

「あの先生が抜けてから、◎◎部弱くなったよね~」ということになってしまっては意味が全くないと思います。(いわゆるカリスマ教師の例と同じです)

地域で循環して部活動も経営していくスタンスが今は求められています。

そして、ゆくゆくは、学校から外し、地域で背負っていく形が大切だと思います。

私の担当している競技は、人口減少が著しい競技です。

各中学校で1チーム、人数をそろえること自体が非常に難しくなってきています。

これから30年後の未来を考えると、そういった地域で抱え込んでいく経営をしていく必要があり、そうできるチームは強いと思います。

 

そして、結局、そのようにできるチームの地域は、折り合いがつけることができ、どんな課題をも解決できる「集団」だと思います。

 

 

いずれにしても「『』集団になっているか?」という視点であらゆることを考えていると、勉強になることがたくさんあり、とても勉強になります。

 

 

「ワークアズライフ」を実践してみてはどうでしょうか?