『学び合い』日記

『学び合い』(2重カッコの"学び合い")の実践の奮闘日記です。

授業訪問を通して

昨日、上越教育大学の西川純教授の研究室の大学院生5名が僕の授業を参観しにわざわざ上越から来てくれました。

僕の勝手な主観ですが、満足していただいていたと思っています。

 

僕はかなり緊張していました。でも、普段通りの授業をできたと思います。

生徒たちも緊張していたようでしたが、何とか頑張っていました(笑)。

 

授業だけでなく、給食準備の活動や片付け活動も見ていただきました。

 

僕は、学級経営も授業も、あらゆることが、すべて考え方でつながっていることを見てほしかったです。少しでも伝わってほしいです。

 

事後研究会では、ゼミ生の方からの質問を僕が答える形での議論を行いました。僕としては聞かれたことに対してのアウトプットが、非常に勉強になりました。

 

印象に残っている質問が山ほどあるのですが、1つ、ノートに何を書いているのかの質問がありました。

そこで、コピーを取って皆さんに見てもらいました。

僕は普段の授業から、『学び合い』の考え方で行う際に3つの視点を持つことを大切にしています。

その3つの視点は、集団を維持・発展させるために必要不可欠な視点だと考えています。

そしてそれは、形態としても"学び合い"でも"ペア"でも"グループ"でも"一斉"でも、部活動でも、学校生活でも、特別活動でも、どんな形でも、変わりません。

教師として大切な視点であると考えています。

そして、ノートには自分が思ったことを書き連ねていることを話しました。

自分のローカルディスクのつもりで取ってます。

 

 

 

ふと、2年前の今頃のことを思い出しました。

ちょうどこの時期に、上越教育大学の西川研究室にお邪魔させていただきました。とても勉強になった時間でした。

あれから2年後、まさか、院生の方が5人も来てくれるとは考えてもいませんでした。

この時期が自分の中で1つのターニングポイントだったと思っています。

 

 

今は、生徒たちがさらに成長できるように様々な取り組みを考えています。でも、それもすべて「一人も見捨てない」という根幹の考え方からです。

 

 

 

「公理的方法」というものがあります。僕はこの考え方が好きです。

コトバンクには、以下のように書いてあります。

ある科学領域について、定められた公理系だけを基礎にして、演繹(えんえき)理論を構成していく方法

 「ある科学領域」というものを「学校教育」に変換してみます。

すると、演繹的に「学校教育」についての理論を構成していく上で、重要なことが「公理」をどうするか、ということになっていきます。

「定められた公理系」の1つの要素として、「一人も見捨てない」というものが僕の中にはあります。

そこから、自分の考え方、理論は構成されていると思います。

ですから、「方法」は全く関係がなくて、何よりも大切なのは、その「公理」の部分だと言えると思います。

 

結局何が言いたいかというと、その「公理」の部分を、院生の人たちの質問のおかげで、再構成することができたということです。

 

授業を見られるのは、緊張もしますが、でも、それだけ身になることを改めて実感しました。

充実した時間をありがとうございました。

嬉しい時間でした。

特別支援

よく特別な支援を要する子どもという表現がありますが、僕は嫌いです。

なぜなら、人間は誰でも「特別な支援」を要するからです。

 

ではなぜ「特別な支援を要する」という表現を使うのか。それは、「特別な支援を要する」子どもを集団が作り出しているからです。

 

自分が所属している集団に不適応な生徒がいたとします。その生徒も1人もほったらかしにせず巻き込む集団であれば、何も問題はないはずなのです。でも、所属する集団の中に、いわゆる「気になる」生徒の存在を認めたときに、それは崩れます。

そうやって「特別な支援」が必要な生徒が出てくるのです。

現在学校教育の現場では、「特別な支援」という言葉が日常的に使われていると思います。でも、その言葉にダウトをかけることが大切だと思います。

僕も昨年度はできていませんでした。でも、今年度は少しずつ意識はするようにしています。

自分のクラスで気になる子がいるから、クラス集団を乱す子がいるから、その子を「特別支援」と見なしていないかどうか?

この目線は常にもち続けたいことです。

授業訪問

今週の金曜日、2月15日(金)に、上越教育大学の院生の方々が授業を見に来られます。

わざわざ見に来られるということですが、逆に僕が勉強したいです。

 

今思うと、外部の先生方に僕の授業を見ていただくのは、現追手門学院中学校の福島先生、長者中学校の青山先生以来だな…、と振り返ります。

 

自分の主観ではなく、他の先生方からの客観的な視点での指導をもらいたいです。

授業後の振り返りもしっかり書きたいと思います。

【書評】転換期を生きる教師の学びのカタチ②

p46 堀 「まず、若い人たちが理解していないのは、僕ら以上くらいの世代は、若い頃にいまのようにインターネットで簡単に情報が手に入るという時代ではなかったので、情報を得るには膨大な本を読まなければならなかった 〜(中略)〜 おそらくは赤坂先生もそうだと思いますが、二十代・三十代で数千万の自己投資をしている。大袈裟でなく、家が二軒建つくらいの自己投資がある。僕らはいま、それなりに著書を出し講師として登壇することがあるけれども、現在でもそれらの収入と比べたとき、若い頃の自己投資なんてまったく回収できていない。僕らには「情報はただじゃない」という意識が根付いている。」

僕は本やセミナー、そして色んな力量形成のために、何万円投資したのだろうかと考える…。

1週間か2週間に一度は本屋に出向き、おやつ感覚で本は買っていた時期もありました。(今は結婚してからおやつ感覚ではなくなりました)

でも、本に対しては同じ種類の本を何冊も買ったりして、色んな著者が共通して言っていることを抜粋して、「あ〜、やっぱこれが大切なんだ」と勉強することを大切にしていました。(今もですね)

自己投資する感覚として「もったいない」と思ったことは一度もありません。むしろ、これを後悔ないように、しっかりと自分の血肉になるように、ガツガツやろうと心に決めて買っているので、「もったいない」と思ったことは一度もないと言い切れのです。

ある種の決意がそうさせたのかと思いますが…。

でも、やっぱり「宝くじ当たったらな〜」とか思うことはありますね(笑)。

ちなみに、赤坂先生も

「有名実践家の全集を、まるでコンビニでお菓子を買うような感覚で購入し、セミナーや本屋さんに行けば、それこそ「棚買い」と言ってもいいような買い方をしていました」

と言っています。

でも、人それぞれで良いのかと思います。

 

 

 

p51 赤坂「私が違和感を超えて不安さえ感じるのは、彼らの圧倒的な行動力と貪欲なまでの学びへの熱意に比して「何がしたいのか」が見えないことです。彼らは何のためにあれだけのコストをかけて学んでいるのでしょうか。その姿は、高い学力をもちながら、それが生きる力となっていないと指摘されるわが国の子どもたちの姿とどこか重なるのです。」

この赤坂先生の言葉には、僕自身の心が動かされました。

「何がしたいのか」

と問われたときに、すぐパッと答えが思い浮かばなかったのです。

なぜ今の『学び合い』の考え方における実践をしているのか、なぜ数学教育を学んでいるのか、なぜ教師をやっているのか、なぜ…。

このように考えたときに、僕は以下のような結論を出しました。

究極的な目標として、目の前にいる自分と関わる全ての生徒たちに「生きる力」を身につけることができるように関わりたい。その「生きる力」とは、これから変化の本当に激しい社会に出ても、一生涯生きていくために必要な力。 幸せになれる力。それを生徒たちが獲得できるように、教育に携わっていきたい。

抽象的ですが、今の時点ではこのような結論に至りました。

 

中学校の先生になろうという目標は、一般的によくある「中学校の恩師の影響」です。

でも、中学校の先生になってからの目標は、以上のようなことに加えて「仲間づくり」もあります。

「あの中学校時代、本当に良い仲間に恵まれたよな。イヤな奴もいたし、変なやつもいたけど、まんざら悪くない学校生活だった」

と思って卒業していってほしいという願いもあります。

そして、近い将来地元に戻ってきて、生まれ育った地元で、幸せになっていってほしいというところにつながります。

 

赤坂先生の言葉に戻りますが、僕はそのために、コストをかけて学んでいるのだと思います。

結構長い時間かけて、この結論にたどり着きました(また考え方が変わるんだと思いますが…)

 

 

 

p54 堀 「ここでふと思いました。」最近、というかここ十数年くらいでしょうか、雑学的なクイズ番組が大流行だということに。Qさま!!とかネプリーグとか、雑学王とか……その手の類いですね。「知識」というものが瞬時にスッキリできるもののみとして捉えられている。深く考えようとか、掛け合わせて新たなものを創造しようとか、そうした発展性のあるものとしてでなく、ただスッキリと満たされるためだけのもの、「へえっ」と関心して一瞬で流れていくもの、そういうものに成り下がっている。」

これについては、僕自身思い当たることがあります。

その1つの例が『学び合い』です。

ある研修会や職員室の会話でもよく「学び合い失敗したよ」「学び合いすると私語が」「学び合い良いね生徒たちが生き生きとしている」「学び合いすると、教師が楽」などの声を耳にするようになりました。

僕はそのたびに、『学び合い』ではなく、「学び合い」の方を考えてしまいます。

そして、「どこまで勉強しているのだろう?」と思ってしまいます。

前もブログで書いたかもしれないのですが、西川先生はよく「『学び合い』は3冊本を読めば、はじめられる」とおっしゃっています。確かにスタートするなら良いかもしれません。

でも、「※」が必要で、※「長期的にずっと継続していくのであれば、それなりの「覚悟」と本は10冊以上読む必要があるよ。」と僕は思います。

『学び合い』で一番ハードルが高いことは、「本通り」です。

本の通りするには、たくさん泥臭く読む必要があります。

「知識」は泥臭く僕は獲得してきました。

でも、まだたりない部分もあります。

勉強あるのみ、と改めて感じました。

 

 

 

p59 赤坂 「一人でことを済ますにはとにかく楽になりました。ただ、その分、人と力を合わせる必要がなくなったとも言えます。もっと言えば、「人と何かをすることがめんどくさい」時代になったのではないでしょうか。

僕はこのことは大学時代にヒシヒシと感じていました。

というか、講義のグループ学習が大の苦手でした。

一言で言えば「めんどくさい」。

僕は大学生のタイプで言えば、講堂の一番後ろでスマホゲームをやっているタイプだったので、この手の学習が本当にイヤでした(笑)。

だから、そのグループ学習があるかどうかで、授業を選んだときもあります。

バカだったな~と振り返ると思いますね。

コミュニケーションアプリなどが多数開発され、便利になったからこそ、「人と何かをすることがめんどくさい」時代になったのだとも感じるところです。

でも、社会に出てから、「人と何かをすることがめんどくさい」なんて言ってられないですよね。

つくづく、過去の自分に言ってやりたい。

「ちゃんとやれ」と。

 

 

以上で今回も終わりにします。

次は、「教師の学びの本質を考える」という2章からの抜粋をしたいと思います。

とりあえず1章は、若手教師は必読のことが山ほど書いていると思うので、皆さんで読みましょう!

【書評】転換期を生きる教師の学びのカタチ①

最近、この本を読破しました。

赤坂真二×堀 裕嗣 往復書簡: 転換期を生きる教師の学びのカタチ (教育単行本)
 

 

読みはじめて思ったことは、「もっと早くこの言葉に触れたかった…」ということ。

印象に残ったフレーズをいくつか私が思ったこととともに、書きたいと思います。

①p13 堀「僕は最近の若手教師に浮遊した印象を抱いています。「浮遊する」というのは言い換えるなら、「承認欲求」が強すぎるとでも言いましょうか、そんな印象です。」

この文を読んで思ったのは、初任者研修です。初任者研修で、県全体の研修や地区の研修などで集まりますが、一緒のグループになった人たちから見えるのは、誤解を恐れずに言えば自分の実践の「自慢」です。

そういった人たちのことが脳裏に蘇りました。「なるほど。」と思って読んでしまったのも事実です。

じゃあ、あんたはどうなのか?と言われると、承認欲求がないわけではありません。ただ、何というか、自分を全面に出して認められたい、というようなことでは全くありません。

 

さらに堀さんはこのようなことを書いています。

「僕らは自分の『論』を承認されたいと思って提案しているのであって、『人』を承認して欲しくて『論』を展開するのではない。」

僕はこの文を読んだときに、「あの初任研の人たちは、ややもすると、学校で自分が承認されることが少なかったのかもしれない。外部の研修で全面に自分を出すというのは、学校で上手くいっていないから、心の拠り所として、自分を強く見せたいがために、あんなことをしていたのではないか?」と思ってしまいました。

まさに、「浮遊」状態ですね。

じゃああなたは?と言われると、「う〜ん」と悩むことがありますが、ただ、間違いなく言えるのは、1つの『論』のために、私は本を30冊以上買いました。その上で『』を実践しています。

ですから、もし「人」を承認してほしかったのであれば、5冊程度でやめていたのではないかと思います。

自分で自分のことを客観的に考えることは難しいのですが、事実として、1つの『論』のために、それだけ投資しているつもりです(今もしています)。

 

 

 

 

p19 赤坂「彼らは『学ばせていただきました』と言うべきではありません。『ちょっと触れさせていただきました』『見聞きさせていただきました』と言うべきです。」

これはセミナーに参加する若手教師から「学ばせていただきました」という言葉をもらうことについての、堀先生と赤坂先生とのやりとりの中での言葉です。

ちなみに堀先生は、p13で

「僕と君とは別の人間、別の人格だ。君という存在が僕という存在から学べるわけがない……」

と述べています。

これは自分の心の中にぐさっとくるものがありました。

N研究室を訪問した時に、私が恐らく自然と口にしていた言葉がこれだと思うからです。

「学ばせていただきました」

たしかに大切な言葉だとは思うけれども、少し使う時に気をつけようかと思いました。でも、若手という立場からすると、目上の人に対してはどうしても出てしまう言葉でもありますね(笑)。

う〜ん。難しいの一言です。

 

 

 

p22 堀「『知り合うこと』『エラい人に自分を知ってもらうこと』『エラい人に自分を承認してもらうこと』が目的で、決してその人の主張や、背景や、実践の本質や……、その他自らの実践を大きく転換・変革するような学びを欲しているのではない。そういう感じがするのです。」

 

これは、私が各種セミナーに参加し、感じたことをそのまま言葉にしたものだと思ってしまいました。

そして、私はこういった「学びを欲していない人」を見て、「絶対あんなふうにはならないぞ!」と決意をした経緯があります。

何か、こう、言いにくいのですが、「自分の利益しか考えていない人」ってなんとなく分かりますよね。

学びを欲しているのではなくて、偉い人に会いにきた人、◯◯先生に会いにきた人、本当によくわかる気がするのです。

『』の会に参加して、西川研究室を訪問して、それでも『』の授業が上手くいかない人は、もしかすると、覚悟というか、それがない、この堀先生の言ったことに当てはまるものでないのかと感じるのです。

 

堀先生は、学びを表層的なものにしないために、必要なこととして、

①活字を浴びるほどに読んで先達の見方を収集すること

②そうして学んだ「他社の目」とも言うべきもので自分の実践を分析すること

③それをもとに同世代を中心とした仲間たちと侃侃諤諤と議論し続けること

この3つを挙げています。

①と②はしていると思いますが、③は不定期ですね。

③を今年は拡げる1年にします。

 

とりあえず今日はここまでにします。

 

本当に心に響くことがたくさんあるので、ぜひ、若手ではない先生方も読むべき1冊だと思いました。

また後日、書き留めたいと思います。

【書評】~池井戸潤さんの本は、最高の自己啓発本でもあるのはないか…~

 

ロスジェネの逆襲 (文春文庫)

ロスジェネの逆襲 (文春文庫)

 

 第3シリーズの「ロスジェネの逆襲」の書評を書きたいと思います。ただし、内容というよりは半沢直樹とその登場人物のセリフに着目したものになるかもしれません。

 

p159

森山「部長はどう考えてたんですか。組織とか会社とか」

半沢「俺はずっと戦ってきた」

半沢「世の中と戦うというと闇雲な話に聞こえるが、組織と戦うということは要するに目に見える人間と戦うということなんだよ。それならオレにもできる。間違っていると思うことはとことん間違っているといってきたし、何度も議論で相手を打ち負かしてきた。どんな世代でも、会社という組織にあぐらを掻いている奴は敵だ。内向きの発想で人事にうつつを抜かし、往々にして本来の目的を見失う。そういう奴らが会社を腐らせる」

学校という組織は年に2回人事異動になるということや、いきなりどこかの学校に行かされることになるということはほとんどありません。

でも、「往々にして本来の目的を見失う」ことはよくあることなのかと思います。

 

 

 

p172

半沢「オレにはオレのスタイルってものがある。長年の銀行員生活で大切に守ってきたやり方みたいなもんだ。人事のためにそれを変えることは、組織に屈したことになる。組織に屈した人間に、決して組織は変えられない。そういうもんじゃないのか」

まだ長年、教師として学校生活を送ってきたわけではないのですが、年数は関係ないとも思います。

私も、今年度ずっと大切に守ってきたやり方はあります。

「組織に屈した人間」、つまり、「こんな学校だから」「こんな学年だから」「こんなクラス」だから、などとあきらめていては、そこの現状からは立ち上がることは難しいことでもあると思うのです。

 

 

p213

森山「また組織の論理ですか」

半沢「お前は嫌いなんだよな、そういうのが」

森山「嫌いです」「いつもそんなもんばっかりに振り回されている世代ですから、オレら」

半沢「まあ、そうかもな。組織とか世の中とか」

半沢「だけど、それと戦わなきゃならないときもある。長いものに巻かれてばかりじゃつまらんだろ。組織の論理、大いに結構じゃないか。プレッシャーのない仕事なんかない。仕事に限らず、何でもそうだ。嵐もあれば日照りもある。それを乗り越える力があってこそ、仕事は成立する。世の中の矛盾や理不尽と戦え、森山。オレもそうしてきた」

「プレッシャーのない仕事なんかない。」と言う通り、おそらく、どこの学校に行っても、違う職業になっても、「プレッシャー」はいつまでも存在するものだと思います。

「仕事に限らず、何でもそうだ。嵐もあれば日照りもある」という半沢のセリフは、すべての社会人に共通して通ずる部分でもあると思います。

 

p326

瀬名「どんな小さな会社でも、あるいは自営業みたいな仕事であっても、自分の仕事にプライドを持っているかどうかが、一番重要なことだと思うんだ。結局のところ、好きな仕事に誇りを持ってやっていられれば、オレは幸せだと思う」

私は今のところは、「好きな仕事に誇りを持ってやって」いるつもりではいます。

だから、「幸せ」な気持ちでもあるのかと思います。

 

 

半沢「嘆くのは簡単だ」

「世の中を儚み、文句をいったり腐してみたりする-。でもそんなことは誰にだってできる。お前は知らないかもしれないが、いつの世にも、世の中に文句ばっかりいってる奴は大勢いるんだ。だけど、果たしてそれになんの意味がある。たとえばお前たちが虐げられた世代なら、どうすればそういう世代が二度と出てこないようになるのか、その答えを探すべきなんじゃないか」

「世の中に文句ばっかりいってる奴は大勢いる」のは、本当にその通りかと思います。

でも、文句ばかり言っても何も始まらない。やるからには、徹底的にやる。自分の主張はしっかり通さなければ、いけないこともある。

 

 

以上のセリフに、私は心の奥底の隅を突かれたような気がします。

銀行マンの話というよりも、私は最高の自己啓発本でもあると思います。

何か書店で売られているそこら辺の自己啓発本よりも、ずっと心を動かされる言葉が多いと思うのは私だけでしょうか?

 

何度も読み返したいものですね。

 

【独り言】〜学年団の色〜

最近つくづく思うのは、所属している学校に恵まれていること。

そして、何よりも所属している学年団の先生方に恵まれているということ。

 

本当につくづく思う…。

 

3年間が経とうとしているわけですが、3年という数字は大きいなと思います。

 

学力の向上を掲げたときに、「家庭学習に力を入れようとする雰囲気」「授業に力を入れようとする雰囲気」の2つの雰囲気が主に挙げられると思うのですが、私は後者で本当に良かったと思っています。

 

後者の考え方になることができたことを幸せに思います。

 

学校の先生は「授業」で勝負すべきなのです。

 

このことを私は学年団から学びました。

 

これも「縁」ですね…。