『学び合い』日記

『学び合い』(2重カッコの"学び合い")の実践の奮闘日記です。

目的を見失っている話し合い

今日改めて思ったことは、「手段が目的化」しているという工藤校長の言葉です。

 

今は各中学校で、年間反省の時期であると思います。恐らく、各指導部での反省や、各学校行事での反省がたくさん出されるのだと思いますが、私が思うのは、いずれの反省内容も、そもそもの目的を見失っているものであるということです。

 

例えば家庭学習ノート。

何のための家庭学習ノートなのかが議論されないままに、「提出しなければ❌」「どうしたら提出するようになるか」「この家庭学習ノートは良い」などの議論がされていないか?

 

また、合唱練習。

何のための、どんな目標を達成するための「合唱」なのかが、共有されていないままに練習がスタートしていないかどうか?

より良い合唱を求めるために練習時間を確保する、生徒たちのために良かれと思ってやったことが、果たしてその目標を達成するための手段としてふさわしかったのかどうかなど。

 

そもそもの根本が抜けている気がするのです。

いや、抜けた上で議論がされているのです。

 

そして、さらに思ったのが、このようなことを思っていたとしても、ヒラ教諭には限界もあるということです。

管理職以下の議論にも限界があることを最近知りました。

もちろん、ヒラ教諭としての一意見を述べて、集団の2割を変えて、6割を動かし、管理職響くようにすることもできるかもしれません。

でも所詮、ヒラ教諭なのです。

 

何というか、ここはもうリーダーシップなのだと思います。

 

 

これを学級に置き換えると、本当に「クラス」って怖いと思います。

担任が思うような王国が、ややもすると作り上がります。

 

 

『』を実践しはじめてから、あらゆる活動の「目的」を意識するようになりましたが、その「目的」を生徒たちに示し、軸を示すからこそ、「集団」が成り立つのかと思います。

 

この活動は何のために存在するのか、このノートは何のために存在するのかなど、そもそもの「目的」を明確にしないことには、議論も何もないのかなと思います。

 

 

学校行事での達成させたい「目標」を示しても、忘れされて、活動自体に目がいってしまう時も私自身がありました。

 

自戒の意味も込めて、考えていかなければならないことだと思います。